2008年の殺人認知件数など
2月5日に警察庁により2008年の犯罪統計が発表されました。
犯罪統計資料(平成20年1月〜12月分)
それによれば殺人は認知件数が1297件(前年+98件)、検挙件数が1237件(+80件)、検挙人員が1211人(+50人)と2007年と比べて増加しましたが、刑法犯総数をはじめ「凶悪犯」*1や「重要犯罪」*2はのきなみ減少したようです。
とりあえず、1926年(昭和元年)以降の殺人の認知件数・検挙人員・検挙率の推移のグラフをつくってみました。
2008年の殺人認知件数の増加をそのまま「日本社会の異常」と読むひとはいないでしょうが、殺人全体における親族間殺人*3の割合がここ数年増加傾向にあることを「異常視」するひとがいるようですし(参照)、今後はこの「割合の増加」をことさら「異常視」した文章*4をマスコミ等で見かけることが増えるかもしれません。いかに「異常」とするか、その論理展開に注意が必要です。
*平成19年(2007年)の「殺人、強盗致死(強盗殺人)、傷害致死の認知件数(の合計)とそれによる死亡者数およびそれらの人口10万人あたりの比率」も戦後最低(たぶん) - どうにもならない日々
「通り魔殺人」過去最悪?
自由に通行できる場所で明確な動機なしに、無関係の人を殺傷する「通り魔殺人事件」は今年に入って9日までに全国で14件発生し、死傷者が43人にのぼったことが11日、警察庁のまとめで分かった。件数、死傷者数ともに過去最悪となった。刑法犯全体の認知件数は6年続けて減少したが、殺人事件(未遂を含む)は戦後最少だった07年同期より約7%増えた。
http://www.asahi.com/national/update/1211/TKY200812110319.html
同庁は93年から通り魔殺人事件を集計している。今年に入っての死傷者43人のうち死者は11人で、これも過去最多だった。都道府県別では東京6件、茨城2件、北海道、千葉、岐阜、三重、福井、岡山が各1件。
だそうな。資料がないので適当なことはいえないが、「通り魔殺人」による死傷者数、死者数が過去最悪だったというのならわかる。でも件数が「過去最悪」というのはおかしい。以下は警察庁の「犯罪情勢」と「昭和61年 警察白書」、通り魔事件の映像-少年犯罪データベースドアを参照して作成したものである。
通り魔殺人の認知件数の推移(1980年〜)
朝日新聞の記事によると警察庁が通り魔殺人事件の集計を始めたのは1993年(平成5年)からということになっているが、「昭和61年 警察白書」の第2章 犯罪情勢と捜査活動には以下のような項目がある。
おそらく、警察庁が1993年から集計しているというのは、通り魔殺人事件を正式にひとつの項目として集計し始めたのが1993年からということなのではないだろうか。「昭和61年 警察白書」に通り魔殺人事件の記載があるのも、1985年(昭和60年)に多発し「過去最悪」になったからだろう*1。
で、この朝日新聞の記事にたいしてひとつ確実にいえるのは、件数は「1993年以降で最悪」「近年で最悪」ではあっても、「過去最悪」などではまったくない、ということ。事実、警察白書に反例が載っているわけ。それを調べてみる気はなかったの、野田一郎さん?
*平成19年(2007年)の「殺人、強盗致死(強盗殺人)、傷害致死の認知件数(の合計)とそれによる死亡者数およびそれらの人口10万人あたりの比率」も戦後最低(たぶん) - どうにもならない日々
*1:「悪質、巧妙化した凶悪事件」という項目のうちのひとつであることからも推測される
「子供の命守れ」とかいう前に
一ヶ月ほど前に平成20年版の犯罪白書が公表された。
のだが、一向にここにアップされない。なるべくお早めにお願いします。>担当の方
で。
「幼児が犠牲になる事件が後を絶たない」ため「防犯対策が喫緊の課題とな」っていることと、「治安は不況になると悪化することは、統計上からも裏付けられて」おり実際に「バブル崩壊後、犯罪が激増し、一時は戦後最悪となった」ことにいったい何の関連性があるんだ。そりゃあ防げる犯罪(というものがあるのなら)は防いだほうが良いに決まっているし、2000年代の前半に戦後最高の犯罪認知件数を記録したことも事実。でも、不況で特に増加するのは「強盗」や「窃盗」だろう。まさか幼児が強盗の対象になるわけではあるまい(笑)。*1今後の景気後退により治安悪化が予想され、幼い子どもが被害を受ける危険性が高まるといいたいのなら、全刑法犯の認知件数の推移などではなく、実際に「幼児が犠牲になる事件」の数の推移を載せるべき。*2といっても「幼児が犠牲になる事件」の被疑者のおおくはその親だったりするので、記事の趣旨には合わなくなるのだが。
さて、犯罪認知件数が「一時は戦後最悪となった」ことは事実であると先に述べた。実際、以下のようになっている。(以下、特に断りがない場合、画像の出典は「平成19年版 犯罪白書」である)
「交通関係業過」「窃盗」を除くと、以下のようになる。
それまではせいぜい微増という程度であったものが、平成12年から急増しているように見える。
これには、次のような指摘がある。
その後、00年に認知件数が軒並みジャンプしているのは、警察の方針転換によるものであることが、複数の論者によって指摘されている(河合〔2004〕、42-44頁、谷岡〔2004〕、190頁、浜井・芹沢〔2006〕、24-27頁)。1999年10月の桶川ストーカー事件において適切な対応を取らなかったとして世論の批判にさらされた警察は、それを機に、市民からの困りごとへの相談体制を強化したり、市民が犯罪被害を警察に相談するように積極的に働きかけたりするようになった。
現代日本社会研究のための覚え書き――セキュリティ/リスク(第2版) - on the ground
平成11年以前と平成12年以後の変化は、犯罪を個別に見るとわかりやすい。
主観的に見て特に「不自然」な増加だと思ったもの(傷害、暴行、脅迫、恐喝、強制わいせつ、住居侵入、器物破損)は四角で囲んでみた。
「窃盗を除く一般刑法犯の認知件数・検挙率の推移」*3だと、まだ「(治安悪化による、なめらかな)急増」に見えるかもしれない。が、個別に見ていくとどうだろう。「平成12年になったとたん治安が悪化し、日本に住む人々が他者に傷害や暴行を加えるようになり、他者を脅迫するようになり、住居侵入をするようになり器物破損をするようになった」なんてことがありうるか?仮にあったとしても、画像のグラフのような増え方はいささか「不自然」ではないだろうか。
特に「器物破損」の増え方が著しいので、窃盗を除く一般刑法犯認知件数に占める器物破損認知件数の割合を計算してグラフをつくってみた。
「窃盗を除く一般刑法犯の認知件数」の増加は「器物破損の認知件数」の増加によるところもおおきい。
くわえて、包括罪種「凶悪犯」の構成要素である「殺人」「強盗」「強姦」「放火」のうち、「殺人」と「放火」には特に注目すべき増加は確認できない。
犯罪認知件数が「一時は戦後最悪となった」とはいっても、内実はこんなものだったりする。
殺人、強盗、傷害による死亡者数の推移(1986年〜)
殺人=殺人(殺人、嬰児殺、自殺関与・同意殺人)による死亡者数(単位:人)
強盗=強盗(強盗殺人、強盗致死)による死亡者数(単位:人)
傷害=傷害(傷害致死)による死亡者数(単位:人)
合計=殺人、強盗、傷害による死亡者数の合計(単位:人)
比率=人口10万人あたりの比率、100000×死亡者数の合計/人口(単位:人/10万人)
年次 | 殺人 | 強盗 | 傷害 | 合計 | 比率 |
---|---|---|---|---|---|
昭61年 | 920 | 53 | 185 | 1158 | 0.95 |
昭62年 | 864 | 49 | 180 | 1093 | 0.89 |
昭63年 | 805 | 35 | 197 | 1037 | 0.84 |
平01年 | 754 | 33 | 162 | 949 | 0.77 |
平02年 | 676 | 16 | 189 | 881 | 0.71 |
平03年 | 639 | 33 | 189 | 861 | 0.69 |
平04年 | 673 | 46 | 194 | 913 | 0.73 |
平05年 | 715 | 33 | 184 | 932 | 0.75 |
平06年 | 751 | 36 | 177 | 964 | 0.77 |
平07年 | 724 | 28 | 183 | 935 | 0.74 |
平08年 | 652 | 34 | 181 | 867 | 0.69 |
平09年 | 710 | 29 | 180 | 919 | 0.73 |
平10年 | 775 | 59 | 188 | 1022 | 0.81 |
平11年 | 736 | 50 | 201 | 987 | 0.78 |
平12年 | 678 | 62 | 181 | 921 | 0.73 |
平13年 | 696 | 80 | 222 | 998 | 0.78 |
平14年 | 662 | 71 | 194 | 927 | 0.73 |
平15年 | 697 | 48 | 179 | 924 | 0.72 |
平16年 | 699 | 60 | 145 | 904 | 0.71 |
平17年 | 643 | 43 | 146 | 832 | 0.65 |
平18年 | 619 | 32 | 145 | 796 | 0.62 |
平19年 | 574 | 30 | 111 | 715 | 0.56 |
平20年 | 646 | 26 | 136 | 808 | 0.63 |
平21年 | 506 | 36 | 129 | 671 | - |
*死亡者数は警察庁の統計による
*比率は、総務省統計局の全国推定人口*1より「10月1日現在推定人口(総人口)」を用いて独自に算出した(小数点第3位を四捨五入)
(2009.2.6 訂正)
平成19年の「殺人」による死亡者数に、嬰児殺による死亡者(20人)と自殺関与・同意殺人による死亡者(23人)の合計43人を加え忘れて計算してしまっていました。よってグラフにも誤りがあったので訂正しました。
(2009.10.29 画像更新)
自殺者数の推移(1899年〜)
*国内の日本人の自殺者は厚生労働省「人口動態統計(確定数)の概況」*1、全国の自殺者は警察庁「平成XX年中における自殺の概要資料」による
警察庁による自殺者数と厚生労働省による自殺者数の違いは以下のとおり。
自殺の経済社会的要因に関する調査研究報告書(本文1)
警察庁のまとめた「自殺の概要」から一部を抜粋して紹介すると次のとおりである。なお、警察庁のまとめた「自殺の概要」の自殺者数と厚生労働省のまとめた「人口動態統計」の自殺死亡数の差異は下記によるものである。
警察庁「自殺の概要」
1 調査対象の差異
警察庁では、総人口(日本における外国人も含む。)を対象としているのに対し、厚生労働省は、日本における日本人を対象としている。
2 調査時点の差異
警察庁では、発見地を基に自殺死体発見時点(正確には認知)で計上しているのに対し、厚生労働省は、住所地を基に死亡時点で計上している。
3 事務手続き上(訂正報告)の差異
警察庁では、死体発見時に自殺、他殺あるいは事故死のいずれか不明のときには、検視調書または死体検分調書が作成されるのみであるが、その後の調査等により自殺と判明したときは、その時点で計上する。これに対し、厚生労働省は、自殺、他殺あるいは事故死のいずれか不明のときは自殺以外で処理しており、死亡診断書等について作成者から自殺の旨訂正報告がない場合は、自殺に計上していない。
国内の日本人の自殺者
年次 | 総数 | 男 | 女 |
---|---|---|---|
明32年 | 5932 | 3699 | 2233 |
明33年 | 5863 | 3716 | 2147 |
明34年 | 7847 | 4872 | 2974 |
明35年 | 8059 | 4986 | 3073 |
明36年 | 8814 | 5547 | 3267 |
明37年 | 8966 | 5585 | 3381 |
明38年 | 8089 | 5020 | 3069 |
明39年 | 7657 | 4665 | 2992 |
明40年 | 7999 | 4836 | 3163 |
明41年 | 8324 | 5100 | 3224 |
明42年 | 9141 | 5735 | 3405 |
明43年 | 9372 | 5928 | 3444 |
明44年 | 9373 | 5847 | 3526 |
大01年 | 9475 | 5955 | 3520 |
大02年 | 10367 | 6474 | 3893 |
大03年 | 10902 | 6894 | 4008 |
大04年 | 10153 | 6503 | 3650 |
大05年 | 9599 | 6065 | 3534 |
大06年 | 9254 | 5724 | 3530 |
大07年 | 10101 | 6147 | 3954 |
大08年 | 9924 | 6158 | 3766 |
大09年 | 10630 | 6521 | 4109 |
大10年 | 11358 | 6923 | 4435 |
大11年 | 11546 | 6984 | 4562 |
大12年 | 11488 | 7065 | 4423 |
大13年 | 11261 | 6958 | 4303 |
大14年 | 12249 | 7521 | 4728 |
昭01年 | 12484 | 7675 | 4805 |
昭02年 | 12845 | 7912 | 4933 |
昭03年 | 13032 | 7984 | 5048 |
昭04年 | 12740 | 7915 | 4825 |
昭05年 | 13942 | 8810 | 5132 |
昭06年 | 14353 | 9102 | 5251 |
昭07年 | 14746 | 9272 | 5474 |
昭08年 | 14805 | 9110 | 5695 |
昭09年 | 14554 | 9065 | 5489 |
昭10年 | 14172 | 8733 | 5438 |
昭11年 | 15423 | 9766 | 5657 |
昭12年 | 14295 | 8923 | 5372 |
昭13年 | 12223 | 7585 | 4638 |
昭14年 | 10785 | 6502 | 4283 |
昭15年 | 9877 | 5841 | 4036 |
昭16年 | 9713 | 5667 | 4046 |
昭17年 | 9393 | 5498 | 3895 |
昭18年 | 8784 | 5115 | 3669 |
昭19年 | - | - | - |
昭20年 | - | - | - |
昭21年 | - | - | - |
昭22年 | 12262 | 7108 | 5154 |
昭23年 | 12753 | 7331 | 5422 |
昭24年 | 14201 | 8391 | 5810 |
昭25年 | 16311 | 9820 | 6491 |
昭26年 | 15415 | 9035 | 6380 |
昭27年 | 15776 | 9171 | 6605 |
昭28年 | 17731 | 10450 | 7281 |
昭29年 | 20635 | 12641 | 7994 |
昭30年 | 22477 | 13836 | 8641 |
昭31年 | 22107 | 13222 | 8885 |
昭32年 | 22136 | 13276 | 8860 |
昭33年 | 23641 | 13895 | 9746 |
昭34年 | 21090 | 12179 | 8911 |
昭35年 | 20143 | 11506 | 8637 |
昭36年 | 18446 | 10333 | 8113 |
昭37年 | 16724 | 9541 | 7183 |
昭38年 | 15490 | 8923 | 6567 |
昭39年 | 14707 | 8336 | 6371 |
昭40年 | 14444 | 8330 | 6114 |
昭41年 | 15050 | 8450 | 6600 |
昭42年 | 14121 | 7940 | 6181 |
昭43年 | 14601 | 8174 | 6427 |
昭44年 | 14844 | 8241 | 6603 |
昭45年 | 15728 | 8761 | 6967 |
昭46年 | 16239 | 9157 | 7082 |
昭47年 | 18015 | 10231 | 7784 |
昭48年 | 18859 | 10730 | 8129 |
昭49年 | 19105 | 10723 | 8382 |
昭50年 | 19975 | 11744 | 8231 |
昭51年 | 19786 | 11744 | 8042 |
昭52年 | 20269 | 12299 | 7970 |
昭53年 | 20199 | 12409 | 7790 |
昭54年 | 20823 | 12851 | 7972 |
昭55年 | 20542 | 12769 | 7773 |
昭56年 | 20096 | 12708 | 7388 |
昭57年 | 20668 | 13203 | 7465 |
昭58年 | 24985 | 16876 | 8109 |
昭59年 | 24344 | 16251 | 8093 |
昭60年 | 23383 | 15356 | 8027 |
昭61年 | 25667 | 16499 | 9168 |
昭62年 | 23831 | 15281 | 8550 |
昭63年 | 22795 | 14290 | 8505 |
平01年 | 21125 | 12939 | 8186 |
平02年 | 20088 | 12316 | 7772 |
平03年 | 19875 | 12477 | 7398 |
平04年 | 20893 | 13516 | 7377 |
平05年 | 20516 | 13540 | 6976 |
平06年 | 20923 | 14058 | 6865 |
平07年 | 21420 | 14231 | 7189 |
平08年 | 22138 | 14853 | 7285 |
平09年 | 23494 | 15901 | 7593 |
平10年 | 31755 | 22349 | 9406 |
平11年 | 31413 | 22402 | 9011 |
平12年 | 30251 | 21656 | 8595 |
平13年 | 29375 | 21085 | 8290 |
平14年 | 29949 | 21677 | 8272 |
平15年 | 32109 | 23396 | 8713 |
平16年 | 30247 | 21955 | 8292 |
平17年 | 30553 | 22236 | 8317 |
平18年 | 29921 | 21419 | 8502 |
平19年 | 30827 | 22007 | 8820 |
平20年 | 30229 | 21546 | 8683 |
平21年 | - | - | - |
全国の自殺者
年次 | 総数 |
---|---|
昭53年 | 20788 |
昭54年 | 21503 |
昭55年 | 21048 |
昭56年 | 20434 |
昭57年 | 21228 |
昭58年 | 25202 |
昭59年 | 24596 |
昭60年 | 23599 |
昭61年 | 25524 |
昭62年 | 24460 |
昭63年 | 23742 |
平01年 | 22436 |
平02年 | 21346 |
平03年 | 21084 |
平04年 | 22104 |
平05年 | 21851 |
平06年 | 21679 |
平07年 | 22445 |
平08年 | 23104 |
平09年 | 24391 |
平10年 | 32863 |
平11年 | 33048 |
平12年 | 31957 |
平13年 | 31042 |
平14年 | 32143 |
平15年 | 34427 |
平16年 | 32325 |
平17年 | 32552 |
平18年 | 32155 |
平19年 | 33093 |
平20年 | 32249 |
平21年 | 32753 |
(2010.1.27 更新)
*1:明治32年〜平成15年の自殺者数は「自殺死亡統計の概況」http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/suicide04/ による
成田空港問題の経緯についてすこし
中山国交相が就任そうそう「失言」し、5日で辞任してしまった。
3つの「失言」のうち日教組についてのものは、彼や彼を擁護するひとたちの主張からは「私は日教組が嫌いだ」以外のことが読み取れなかった。日教組と学力の相関なんて話も出たが、彼は「大体そういう傾向と思」っているようで、こういう認識のひとに実際の統計の話をしても無駄という気はする。*1
各「失言」の問題点のまとめとして。
さて、成田空港問題(三里塚闘争)についてだけど、その経緯についてはあまり知られていないのではと思った。ある教授(40代半ば)がある講義中に成田空港がいまだ未完成であることに触れ、その理由を「周辺の住民が環境破壊を理由に反対運動を起こしたから」などと説明していたときは呆れてしまったが、もしかしたら世間的にはそんな程度なのかもしれない。
国策で人生を棒に振って、もう一度国策に従ってやり直しを図った人たちは、国策に従って土地を差し出して「公のためにはある程度は自分を犠牲にしてでも捨て」なければならなかったらしい。事前交渉どころか説明すら存在せず、補償内容まで未定の状態で計画が発表されたとしても、それに反対するのは「公共の精神」に欠ける振る舞いだと信じているなら、中山大臣の「公共」という言葉は、おそらく現代日本のいかなる辞書にもその典拠を求めることができない概念である。ひょっとしたら、中国共産党幹部とだったら話が合うかもしれないが。
http://d.hatena.ne.jp/Tez/20080928/p1
40年目の成田闘争 - 1
40年目の成田闘争 - 2
40年目の成田闘争 - 3
「事前交渉どころか説明すら存在せず、補償内容まで未定」という記述はwikipedia:三里塚闘争にも見られ、僕も鵜呑みにしていたのだけど、以下によればどうやら説明がまったくなかったというわけではないらしい。ただ、政府が新空港建設を急ぐあまり地元住民を軽んじた、ということは疑いのないことだろう。
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新国際空港の立地については、一九六三年から六六年にかけて、いくつかの案が出されたが、最終的に霞ヶ浦と富里がその候補地として挙げられた。霞ヶ浦がボーリング調査の結果、不適格であることがわかり、一九六五年十一月の閣議で、富里に内定した。ところが、地元町村議会はただちに反対決議をおこない、地元住民を中心として、富里・八街空港反対同盟が結成された。一九六六年に入って、反対運動は激化の一途をたどり、自民党もついに富里案を断念せざるをえなくなり、羽田の拡張、あるいは、木更津という代案が出されたが、いずれも主として航空管制の技術的な観点から実現不可能であることがわかる。そして、三里塚案が突如として、川島自民党副総裁から当時の友納知事に対して、自民党政調会の斡旋案として提示されることになる。六月十七日のことである。三里塚案は、その主要な地域が下総御料牧場であった。六月二十八日、佐藤総理は天皇に内奏して、下総御料牧場の栃木県・高根沢町への移転を願い出て、聴許されるという手続きをとっている。(pp.75-76)
〔…〕三里塚地区にはさきに述べたように、四〇〇ヘクタールを超える下総御料牧場があり、県有地、ゴルフ場もある。それにもまして、三里塚から芝山町にかけては、第二次世界大戦後に入植した開拓農民の比率が高いということが、政府にとって三里塚案を選ぶに有利であると判断させたのではないだろうか。事実、友納知事が、富里・八街地区に比べて、三里塚・芝山地区の農民は「貧しい」から、土地収用が容易だという意味の発言をおこなって、反対派の農民たちの激怒を買ったこともあったのである。(pp.76-77)
一九六六年七月四日、政府は閣議を開いて、新東京国際空港を三里塚に建設することを決定した。ここに二十五年に及ぶ成田空港問題が生れたわけであるが、この前すでに、六月二十八日、地元住民は空港反対総決起大会を開いて、三里塚空港反対同盟を結成した。ついで、七月二日には、芝山町空港反対同盟、多古町空港反対同盟がそれぞれ抗議活動をおこない、四日には成田市議会も三里塚空港設置反対を決議した。
このような反対運動が展開されるなかで、七月四日の閣議決定がなされたのであるが、政府は地元住民に対して形式的な説明会を一回おこなったのみであった。(pp.77-78)
また宇沢氏は「私はその真偽を知る立場にない」としつつも、以下のようなエピソードを紹介している。
三里塚立地を決定したときの政府の姿勢を象徴的にあらわすエピソードがいいつたられている。それは、七月四日の閣議決定の前夜、当時の運輸事務次官と農林事務次官の間に交わされた議論である。三里塚案が運輸省から提示されたとき、農林次官は、運輸次官に対して、この案について地元の農民の了解を得たのかと問い質したという。それに対して、運輸次官は、「運輸省が飛行場をつくるときには上の方で一方的に決めて、農民はそれに従うのが一般的原則である。これまでもこの方式で飛行場を建設してきたのであって、一度も問題になったことはない」と答えた。(pp.78)
真偽はわからないが、運輸省などの再編によって誕生した国土交通省の大臣としての立場の者が「公のためにはある程度自分を犠牲にしてでもというのがなくて、自分さえよければという風潮の中で、なかなか空港拡張もできなかったのは大変残念だった」などと発言したのでは、上記の運輸次官の発言の信憑性が増すというものである。そりゃあ「中国がうらやましい」わな。
追記
一九六八年に入ってますます高まりをみせていった空港反対闘争によって、公団による用地買収は大幅におくれていった。用地買収は、一九六七年度末までに七〇%済ませるように予算措置がとられていたが、一九六八年三月三十一日現在、わずか五%にすぎなかった。公団はここで戦術を転換し、用地買収を積極的に推し進めてゆくようになった。(pp.84)
この、騒然とした状況*2のなかで、〔一九六九年〕九月十三日、公団は、建設大臣に、土地収用法にもとづく事業認定の申請を提出した。(pp.86)
事業認定の告示がなされると、該当する土地の所有者は、任意的に土地を公団に売却するか、強制収用の適用を受けるかという選択肢しか残されなくなってしまう。(pp.88)
地元住民を事前に説得することもせず、どうして「一九六七年度末までに七〇%済ませ」られると考えていたのだろうか。いまとなっては政府の「強権的」な姿勢が目につく。「東峰十字路事件」では一連の闘争で初めて死者が出たわけであるが、“実力対実力”の対決になっていったのにも当然背景がある。反対派住民にとって、新左翼党派と共闘しないという選択肢はありえたのだろうか?