震災三週間後の仙台東部

JR仙石線小鶴新田駅まで営業再開したので、仙台港付近を目指して歩いた。
ルートは以下のとおり。


(1)宮城野体育館付近

「表層地盤のゆれやすさマップ(宮城県)」*1によると、宮城野区は相対的に揺れやすいようで、僕の住む青葉区よりも建物や電柱や道路などの損傷が大きい。


(2)福田橋*2付近

ここから東へ行くほど、瓦が落ち屋根にブルーシートを被せている家が多く見られた。


(3)福田新橋*3付近


(4)高砂大橋*4付近河川敷

奥は七北田川河口。枯れた植物が同じ方向に倒れている。

アルバム。古い切手と写真が並んでいた。


比較的きれいな状態の車、しかし車内には泥水にまみれた痕跡が。


(5)公園

高砂中学校から200mほど河口側にあり、海岸線からは直線距離で3km以上離れている。このあたりは倒壊した住宅こそ見られなかったが、床上まで浸水した家屋が多かったのだろうか、公園はごみ捨て場になっていた。


(6)高砂*5付近河川敷

高砂橋は七北田川において最も河口側にある橋であり、これを境に風景は一変する。


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(7)


なぜかCDが散乱していた。


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僕(176cm)の胸から肩ぐらいの高さまで津波の痕跡が残されていた。海岸線からの距離は約2.2km。


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あたりにはキリンビール製品が多く散乱していた。


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車が突っ込んだような跡が残る。津波の高さは、道路を基準にして3m弱。



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(上)通って来た道を振り返った。未開封の飲料や洗剤などを拾っているひとが数人いた。この日、そのようなひとは数組いた。珍しくないのかもしれない。



左が海側。海岸線に植えられていた防潮林が、がれきに絡まっていた。


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海岸線までの道のりはあと1.6kmはある。道路上はだいぶ片付けられていた。




(下)奥に流されず残った防潮林が見える。


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海岸線までは1.3kmほどであるが、津波の高さは4m以上あったものと思われる。
これを撮っている頃、僕のいた場所から30mほどのところで、警察官や自衛隊員など7、8人が集まりだした。ブルーシートと毛布を敷き、黒い塊を載せて包んでいた。*6
このあたりの風景はやけに開けていたが、その理由を帰宅後、震災前のGoogle Map(航空写真)を見て知った。


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この建物(体育館)は2階の窓がすべて割れていた。



蒲生干潟方面を見やる。河北新報「野鳥の楽園、見る影なく 一帯に砂、復元不能か 蒲生干潟という記事があった。



道路をまっすぐ進んだ先にある浜(20)には立ち入れなかった。*7一年前、津波関係の講義の一環で波高を測りにいった場所である。ので、目の前に見える海を撮った。


写真は3月30日に撮ったもの。31日にGoogleが被災地の震災後の航空写真を公開した。僕が歩いた距離はたいしたものではないが、津波の溯上長さは、実感として、地図上の距離よりもはるかに長かった。