成田空港問題の経緯についてすこし

中山国交相が就任そうそう「失言」し、5日で辞任してしまった。
3つの「失言」のうち日教組についてのものは、彼や彼を擁護するひとたちの主張からは「私は日教組が嫌いだ」以外のことが読み取れなかった。日教組と学力の相関なんて話も出たが、彼は「大体そういう傾向と思」っているようで、こういう認識のひとに実際の統計の話をしても無駄という気はする。*1
各「失言」の問題点のまとめとして。

そろそろ中山国交相の失言について語っておくか - 過ぎ去ろうとしない過去


さて、成田空港問題(三里塚闘争)についてだけど、その経緯についてはあまり知られていないのではと思った。ある教授(40代半ば)がある講義中に成田空港がいまだ未完成であることに触れ、その理由を「周辺の住民が環境破壊を理由に反対運動を起こしたから」などと説明していたときは呆れてしまったが、もしかしたら世間的にはそんな程度なのかもしれない。

国策で人生を棒に振って、もう一度国策に従ってやり直しを図った人たちは、国策に従って土地を差し出して「公のためにはある程度は自分を犠牲にしてでも捨て」なければならなかったらしい。事前交渉どころか説明すら存在せず、補償内容まで未定の状態で計画が発表されたとしても、それに反対するのは「公共の精神」に欠ける振る舞いだと信じているなら、中山大臣の「公共」という言葉は、おそらく現代日本のいかなる辞書にもその典拠を求めることができない概念である。ひょっとしたら、中国共産党幹部とだったら話が合うかもしれないが。

http://d.hatena.ne.jp/Tez/20080928/p1

40年目の成田闘争 - 1

40年目の成田闘争 - 2

40年目の成田闘争 - 3


「事前交渉どころか説明すら存在せず、補償内容まで未定」という記述はwikipedia:三里塚闘争にも見られ、僕も鵜呑みにしていたのだけど、以下によればどうやら説明がまったくなかったというわけではないらしい。ただ、政府が新空港建設を急ぐあまり地元住民を軽んじた、ということは疑いのないことだろう。

「成田」とは何か―戦後日本の悲劇 (岩波新書)

「成田」とは何か―戦後日本の悲劇 (岩波新書)

以下引用。

 新国際空港の立地については、一九六三年から六六年にかけて、いくつかの案が出されたが、最終的に霞ヶ浦と富里がその候補地として挙げられた。霞ヶ浦がボーリング調査の結果、不適格であることがわかり、一九六五年十一月の閣議で、富里に内定した。ところが、地元町村議会はただちに反対決議をおこない、地元住民を中心として、富里・八街空港反対同盟が結成された。一九六六年に入って、反対運動は激化の一途をたどり、自民党もついに富里案を断念せざるをえなくなり、羽田の拡張、あるいは、木更津という代案が出されたが、いずれも主として航空管制の技術的な観点から実現不可能であることがわかる。そして、三里塚案が突如として、川島自民党副総裁から当時の友納知事に対して、自民党政調会の斡旋案として提示されることになる。六月十七日のことである。三里塚案は、その主要な地域が下総御料牧場であった。六月二十八日、佐藤総理は天皇に内奏して、下総御料牧場の栃木県・高根沢町への移転を願い出て、聴許されるという手続きをとっている。(pp.75-76)

〔…〕三里塚地区にはさきに述べたように、四〇〇ヘクタールを超える下総御料牧場があり、県有地、ゴルフ場もある。それにもまして、三里塚から芝山町にかけては、第二次世界大戦後に入植した開拓農民の比率が高いということが、政府にとって三里塚案を選ぶに有利であると判断させたのではないだろうか。事実、友納知事が、富里・八街地区に比べて、三里塚・芝山地区の農民は「貧しい」から、土地収用が容易だという意味の発言をおこなって、反対派の農民たちの激怒を買ったこともあったのである。(pp.76-77)

 一九六六年七月四日、政府は閣議を開いて、新東京国際空港三里塚に建設することを決定した。ここに二十五年に及ぶ成田空港問題が生れたわけであるが、この前すでに、六月二十八日、地元住民は空港反対総決起大会を開いて、三里塚空港反対同盟を結成した。ついで、七月二日には、芝山町空港反対同盟、多古町空港反対同盟がそれぞれ抗議活動をおこない、四日には成田市議会も三里塚空港設置反対を決議した。
 このような反対運動が展開されるなかで、七月四日の閣議決定がなされたのであるが、政府は地元住民に対して形式的な説明会を一回おこなったのみであった。(pp.77-78)

また宇沢氏は「私はその真偽を知る立場にない」としつつも、以下のようなエピソードを紹介している。

 三里塚立地を決定したときの政府の姿勢を象徴的にあらわすエピソードがいいつたられている。それは、七月四日の閣議決定の前夜、当時の運輸事務次官と農林事務次官の間に交わされた議論である。三里塚案が運輸省から提示されたとき、農林次官は、運輸次官に対して、この案について地元の農民の了解を得たのかと問い質したという。それに対して、運輸次官は、「運輸省が飛行場をつくるときには上の方で一方的に決めて、農民はそれに従うのが一般的原則である。これまでもこの方式で飛行場を建設してきたのであって、一度も問題になったことはない」と答えた。(pp.78)


真偽はわからないが、運輸省などの再編によって誕生した国土交通省の大臣としての立場の者が「公のためにはある程度自分を犠牲にしてでもというのがなくて、自分さえよければという風潮の中で、なかなか空港拡張もできなかったのは大変残念だった」などと発言したのでは、上記の運輸次官の発言の信憑性が増すというものである。そりゃあ「中国がうらやましい」わな。

追記

三里塚 成田闘争 行政代執行 東峰十字路事件 - 1971

一九六八年に入ってますます高まりをみせていった空港反対闘争によって、公団による用地買収は大幅におくれていった。用地買収は、一九六七年度末までに七〇%済ませるように予算措置がとられていたが、一九六八年三月三十一日現在、わずか五%にすぎなかった。公団はここで戦術を転換し、用地買収を積極的に推し進めてゆくようになった。(pp.84)

この、騒然とした状況*2のなかで、〔一九六九年〕九月十三日、公団は、建設大臣に、土地収用法にもとづく事業認定の申請を提出した。(pp.86)

事業認定の告示がなされると、該当する土地の所有者は、任意的に土地を公団に売却するか、強制収用の適用を受けるかという選択肢しか残されなくなってしまう。(pp.88)

地元住民を事前に説得することもせず、どうして「一九六七年度末までに七〇%済ませ」られると考えていたのだろうか。いまとなっては政府の「強権的」な姿勢が目につく。「東峰十字路事件」では一連の闘争で初めて死者が出たわけであるが、“実力対実力”の対決になっていったのにも当然背景がある。反対派住民にとって、新左翼党派と共闘しないという選択肢はありえたのだろうか?

*1:さまざまな犯罪が起こっている。あるいは親殺しとか。それは教育に問題があった。特に日教組」とかベタにもほどがある

*2:三里塚御料牧場の閉場式を「粉砕」した反対同盟青年行動隊数人が約3週間後に300人の機動隊に逮捕されたことにたいし、きびしい抗議が展開されたことなど